5月8日(日)瀬戸内文化研究会5月の定例会がいつもの新居浜公民館2階会議室で行われました。
今月の内容は、日宋貿易が盛んだった頃、瀬戸内への航路には、本州地乗りルートと芸予沖乗りルートか
防予沖乗りルートがあり、四国側には、四国沖乗りルートがあった。これらのルートの地乗りルートは
陸伝いに通るルートを言い、沖乗りルートとは、島伝いに沖目を通るルートを指していた。
当時の船はどの程度の大きさだったかについて調べた結果、遣明船(ケンミンセン)は長さ23m、幅7.2m程度。
遣明船は、季節風を利用して航海を行った。春又は秋の東北の季節風に乗って大陸へ渡り、5月以降、西南西の
季節風に乗り、日本へ帰国した。瀬戸内海で使用された中小船舶を弁財船と呼び、近世前期の弁才船の積石数は
110石から960石で、主力は250石前後であった。
弁才船は長さ29m、幅7.5mで、国内航路では北前船など江戸時代の主役を務めていて、積載量は
700石〜1000石積だった事から俗称として千石船と呼ばれるようになった。昔から瀬戸内海は塩田業が盛んで、
日本国中に販路を持っていたが、運搬はすべて船に頼っていた為、瀬戸内海の造船技術はとても発達して行ったと
考えられる。
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