諸国諸流の前野一族

 戦国時代の頃、丹後國與謝郡與謝村に下瀬屋城あり。 その城主は前野半介なりと傳えられる。 惜しむらくは此の前野氏の、先系後孫などは不明なり。

丹後に隣る若狭國小浜は、近世初期には京極高次が領主として在住せり。 その家臣の記録、京極殿給帳には、
    二百石、    前野孫太夫
の記載が見ゆ。丹後より来住せしか、或いは近江出身の前野氏なりや、 これも詳しきことは記録を欠きたり。

 紀伊國那珂郡の北脇村には、近世には地士としての間江野氏あり。 此の地方は北脇荘と称せられしや、その大荘屋職に間江野善太郎が居り、 同族には間江野善次郎のありしこと、紀伊國続風土記に見ゆ。 近世後期の人なり。 間江野と前野とは、同音異字の記載なるべきも、此の氏の来由は不明なり。

 近江國の前野氏は、橘姓岩室氏の分かれに見え、その発祥は室町戦国時代の頃なり。 岩室氏の上祖は平安時代中頃の人、蔵人橘義清にて"尊卑分脈"には筑前守義通の子 として此の人が見ゆ。続群書類従所収の橘姓山中系図と、系図纂要の橘氏系図には、 義清以後の数代を記し近江國柏木の本領主たりしことを伝う。平安時代末期の人に 右馬助頼俊が見え、その子能俊は甲賀郡岩室の地頭となり、岩室進士と称す。 前野氏はその裔孫にて、岩室氏の古傳系図に下記の記載あり。

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 この前野氏の苗字の由来は不明なり。 室町時代以後、六郎俊英の後は如何になりしや、傳承記録に見るものを得ず。

 近世の後期、豊前國中津の奥平藩中に、蘭学者の前野良澤あり。 名は憙楽山と号す。 早くより学究を志し、江戸の藩邸にありて青木昆陽に学び、名和七年に中津に行き、 更に長崎に赴きて専ら蘭学を修む。 翌八年には江戸に帰り杉田玄白らと共に解体新書の訳述を主宰、 その後も蘭学に関する多くの著作あり。
 常に奥平候に優遇せられ享和三年十月、八十一歳にて没したり。
明治二十六年十二月、正四位が追贈せらる。その子は良庵にて、名は達。 父に就きて蘭学を学びしも、父より先に病没せり。 代々医道の家たりしなり。

 関東の下野國在住の前野氏は、各地より移りし系流という。
一は越中の東砺波郡出身にて、丸に蔦を家紋とし、大田原の藤沢に数家あり。
一は山形よりきたりて栃木市に見ゆ。本家は山形に在住し、家紋は三つ巴を用う。
 なお此の系の上祖は西國出身なりという。 戦國時代の頃、下野國には豪族の皆川氏あり。 その配下に前野監物、同雅楽助の名が見ゆるも、この前野氏の先系後孫は不明なり。 秋田県には、並び矢を家紋とする前野氏が見ゆ。

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